アメリカのお酒に関する歴史「禁酒法」

目次
ボルステッド法(通称 禁酒法)ギャングが闊歩、犯罪の勃発
まとめ
ボルステッド法(通称 禁酒法)
アメリカ史上で、いや世界の歴史の中でこれほど国民から無視された法律も珍しいでしょう。 アメリカでは、植民地時代でも、過度の飲酒を戒めて節酒を提唱していました。 目的はアルコール中毒や犯罪を減らすためで、法律で「酔いをもたらす飲み物」を定め、その製造・流通・販売を禁じるといった内容でした。 そして1810年代頃には、禁酒運動は北部を中心に組織化され始めました。 その後1920年1月17日、全面的な禁酒が決まってしまいました。 これがボルステッド法と呼ばれるもので、以後約14年間にわたって暗黒の時代が続きます。 不思議なことにこの法律は、酒の醸造・販売・運搬・輸出入を禁止しただけで、飲酒自体は認めていました。 つまり、家で飲むのはいいけれど、バーでは飲めないというわけ。 違反者は初犯でも罰金1000ドル、禁固6カ月という大重罪でした。
ギャングが闊歩、犯罪の勃発
結果はどうだったのでしょうか。 しかしまぁこんな法律、誰も守るわけがなく、世の中には密造酒と密輸酒があふれかえってしまいました。 禁酒法施行前、ニューヨークには1万5000しかバーがなかったのですが、 禁酒時代には3万2000もの闇バーがあったそうです。 庶民は、当局から酒を隠すのに四苦八苦。 酒瓶を本棚に隠したり、卵の中身を酒に代えたり、はたまた酒を詰めたホースを腹に巻いて妊婦に化けたりと、涙なくしては語れない状態でした。 さらにアルコールに飢えた人々は、飲酒をやめるかわりに、違法と知りつつも闇のルートに頼るようになります。 これはギャングたちにとってまたとないビジネスチャンス。 彼らは競ってアルコール密造者になり、大量のアルコールを密販売しました。 大都市では、ギャングが闊歩、犯罪が劇的に増加してしまいました。 仕切っていたのはアル・カポネをはじめとするギャング連中で、これによりアメリカのアングラ社会が確立してしまったのです。 ギャングは儲けた金で警察や裁判官を買収、アメリカ社会は滅茶苦茶になってしまいました。 誰に目にもこの事態が明らかになった1933年、法律は廃止されましたが、飲酒量と犯罪率の水準は元に戻りませんでした。 この苦い体験はいったい何だったか、と現在でも言われています。