世界最高ブランデー『ルイ13世』その人物
最高級コニャックの代名詞として存在するこちらのルイ13世は、その「味」だけでなく、デザイン性の人気(ボトルはバカラクリスタル製)と、全世界での生産数・流通量が限られているがゆえの希少性により、お酒の中古相場としては破格の金額にてお取引がされています。
名前になっている国王ルイ13世は、本国フランスでは「弱い王」というレッテルが今もはられていますが、実際のルイ13世は、「気性の激しい軍人肌」の人物であったそうです。
フランスでは人気ナンバーワンの王様アンリ4世の息子であり、太陽王と呼ばれたルイ14世のお父さんでもある王様です。
今回は、彼がどんな人物であったかについて面白くご紹介していきたいと思います!

目次
大変な幼少時代
父はアンリ4世、母はマリー・ド・メディシス。
1610年の国王アンリ4世の暗殺で、わずか8歳という若さで王位につきます。
父の暗殺を受けて、「僕が付いていたら、やつを剣で刺し殺したのに。」と雄々しく叫んだそうですが、8歳の彼には暗殺者を殺すどころか、夜も1人で寝られないお年頃でした。
さらにつらかったのはその翌日。
早起きさせられ、朝食はハーブティーだけ、その日の演説を暗記させられ、新国王として高等法院に赴くと言うハードスケジュール。
8歳の新国王にはとても窮屈な儀式であるためか、国王即位宣言は「蚊の泣くような」弱々しいものだったそうです。
ルイ13世は他のどの国王とも違い、主治医が毎日の生活や食事についてこと細かく記していたため、少年時代どんな子供だったかがよくわかる王だともいわれています。
彼は勉強があまり好きではないが、一方で狩り、乗馬、武術には一生懸命取り組む子供でした。
しかし、性格面でいえば、傲慢、嫉妬深い、そして女嫌い。
父アンリ4世がたくさんの愛人を持ち多くの私生児が生まれてくることが彼には耐えられないことだったようです。
とにかく女を嫌い、実の妹を軽蔑し、養育係のモングラ夫人に「お前を殺す」と言う有様。
キレやすい現代っ子のようだったようです。
母は母で、夫アンリ4世と仲が悪く何度も「フィレンツェへ追い返す」を脅迫されていました。
その分息子のルイに愛情を注ぐと思いきや、彼には厳しいしつけを与え、3男のガストンだけに愛情を注ぐと言う偏狭ぶりを見せつけていました。

女性嫌いな一面
ルイが成人宣言をして、結婚式が行われました。政略結婚というか、親の決めた嫁(スペイン王フェリペ3世王女)との結婚であったため、ルイの女性への軽蔑心は拭い去られてはいませんでした。
2度目の結婚式の後、結婚がきちんと成立するための「床入り」の儀式も、国際政治上、重要な結婚であったのに結局失敗に終わってしまいます。
外交交渉を失敗させたくないと、半ば強引に花嫁のベッドに眠らせる母と、とにかく女が嫌いで嫉妬深く成就を求めない息子。
妻アンヌとの間には22年間王子王女が生まれませんでした。
王族の中では珍しく愛人がいなく、彼はホモセクシャルないしバイセクシャルであるとの噂もありましたが、のちにルイ14世とオルレアン公フィリップ1世が生まれます。

母との政治
ルイの国王即位当時、当面は母マリーが摂政を務めましたが、段々成長するに従って母を排斥して自分から政務をこなすようになります。
国王ルイは結婚騒動以外にも母に不満を持っていました。
「いつまでもガキ扱いしてんじゃねーよ!」と彼はいつまでも摂政として自分よりでかい顔をしている母を嫌に思い、早く自分が国王としての責任と義務を果たしたいと思い始めるのです。
政治において母とどっこいどっこいな政策を重ね国王政治、摂政政治…と勢力がひっくり返ることがたびたび起きてしまいます。
しかし、ルイは常に疑り深い人物で、時には暗殺や権力の没収など冷酷な一面を見せる王でもありました。
その後母と和解する時がきますが、有名な宰相リシュリュー枢機卿の失脚問題でルイは母をフランスから追放させ、彼女はブリュッセルに亡命します。
1643年にルイ13世はルーブル宮において41歳で亡くなります。
その後わずか4歳のルイ14世が後を継ぐことになるのです。
また若い王の誕生で、フランスの政治はまた波乱が生まれることになります。

まとめ
弱い王とレッテルをはられ、冷酷な一面を持つ王でしたが、辛い苦労があった幼少時代を知ると、憎めないですね。むしろ愛着がわいてきます。レミーマルタン・ルイ13世を飲む機会がありましたら、彼のことを思いはせてみてください。