こんにちは。
今回の豆知識のテーマは
『ウイスキーの密造時代がその色を変えた』です。
現在、世界中で嗜好品として愛されているウイスキーですが、
『密造時代』と呼ばれるものがありました。
いっけん、いけないもののように聞こえますが、この時代がウイスキーに革命を起こし、構造技術を大幅に成長させたといわれています。
今回はその
『ウイスキーの密造時代』について触れていきたいと思います!
ウイスキーの小歴史
ウイスキーの語源は、ゲール語(ケルト語の一種)の
「ウィシュケ・べァハ」、すなわち
「生命の水」という意味でした。
中世の蒸留技術を用い、穀物から造った醸造酒、いわゆる
ビールを用いたものが始まりです。
記録としては、12世紀、1171年イングランド王ヘンリー2世の軍隊が、アイルランド遠征時に強い酒を飲んだという記述が残っており、現在のウイスキーの前身だったと考えられています。
当初は穀類を発酵させて蒸留するのみだったため
無色透明で、現在のような琥珀色はしていませんでした。
密造時代の始まり
ウイスキーに対する課税が初めて行われたのは1644年。
1707年、イングランドはスコットランドを併合し、財源確保のためスコットランドに対し
高額の酒税を課すようになりました。
そこでイングランドへの反感と課税を嫌う人々は山奥へ逃れ、各地の
山奥に隠れてウイスキーの製造するようになりました。
これが密造時代の始まりです。
この密造時代は、実に1823年の酒税法の改正まで
100年以上にも渡って続きました。
しかし、このことがウイスキーに与えた影響は非常に大きいものでした。
スコットランドハイランドの住民たちは
酒税の重圧から逃れるために、人里離れた山奥でその現地にあったピートを使い、手近にあったシェリー酒の空樽に「密造ウイスキー」を詰めて、そのまま、徴税人の目につきにくいように渓谷などに隠しました。
そして時が経ち樽を開けてみると、今まで透明だったウイスキーは
琥珀色になり、
味も香りもまろやかに変わったと言われています。
ピュアな水源に出合えたり、ピートや大麦も豊富に得られるようになったりしたのです。
現代に受け継がれるスコッチ・ウイスキー造りのノウハウは、この密造時代があったからからこそ確立されたと言っても過言ではありません。
終焉、その実態は
当局の取り締まりが強化されるにつれて、南部のローランド地方では次第に密造がすたれて行きます。
その原因は
環境でした。
峻険な山々や、逆巻く渓流と言った厳しい環境に囲まれているハイランド地方に対し、ローランド地方はおしなべて
穏やかな丘陵地帯なのです。
見晴らしの良い環境で密造を行なうことには、やはり限界がありました。
またイングランドと接していることが、
密造を隠し通せなかった原因のひとつでもあります。
そして密造に代わる対抗策として発達させようとしたのが、
テクノロジーです。
ポット・スチル(単式蒸留機)に改良を加え、蒸留効率を上げることによって対抗したのです。
しかしテクノロジーとは言うものの、学術的な裏付けのない環境では革新的な進歩などは望むべくもなく、蒸留時間短縮のツケは、しっかりとクオリティに跳ね返って来てしまいました。
結果
ローランド・モルトの品質は劣化し、以後衰勢の道をたどっていってしまいました。
一方イングランドとの間にローランド地方と言う‘垣根’を持つハイランド地方には、密造の温床が着々と巣くって行きました。
取り締まりのために政府はあらゆる手を尽くしますが、徒労に終わることも度々。
1823年、政府は現状の『いたちごっこ』の無意味さをついに悟り、妥当な金額の
『ウイスキー製造認可料』の導入を決断します。
これにより密造者や密売人は合法的に商売ができるようになり、ここに密造時代は終焉を迎えました。
まとめ
当時のスコットランド人は、現代の我々では思い及ばないほど大量の酒を飲んでいたと言われています。
スコットランドでは、密造酒のことを隠語で
『マウンテン・デユー mountain dew』(山の雫)などと呼んでいました。
洒落た表現ですね。
こんなスコットランドの人々のウイスキーに対する愛情が、法の規制を乗り越えての技術を生み出したのです。